「受験勉強」を重く受け止めない発想の転換

受験全般 comments(0) - 堀川紫野介

同世代の多くの人たちが青春を謳歌しているのに、なぜ自分だけ嫌な思いをして「受験勉強」に取り組まなければならないのかと嘆き悲しむことはありませんか。

 

 

 

確かに、好きな子とデートもしたいし、ゲームもしたい、ショッピングもしたい。自分のやりたいことは「受験勉強」ではないはずだと思う気持ちもわかります。ほとんど自由な時間を確保できず、ゲボゲボ状態で勉強に取り組まなければならない毎日は逃げ出したくもなるでしょう。

 

 

 

しかし、誰もが陥りりそうな思考回路を「発想の転換」によって百八十度変えてしまう例が古典に記述されています。吉田兼好の『徒然草』第九十三段「牛を売るものあり」です。

 

 

 

この話はちくまプリマー新書033 上野誠著『おもしろ古典教室』(筑摩書房刊)に詳細に記述されていました。奈良大学教授の上野先生は自分が体験したエピソードをベースに話を展開されてますので、滅茶苦茶おもしろいです。先生の話は後段で記述させていただきます。

 

 

 

さて、本題の「牛を売るものあり」の話ですが、次のような話です。

 

 

 

吉田兼好の生きていた時代は鎌倉時代末期から南北朝時代にあたります。吉田兼好が生きていた間に楠木正成は生まれて死んでいます。のんびりムードの雰囲気ですが、けっこう激動の時代だったんですね。

 

 

 

そんな時代の話ですから「牛を売るものあり」も現在のお肉屋さんの話ではありません。当時は牛を食べる習慣がなく、農耕用に使用する牛の売買の話です。

 

 

 

あるとき牛を売りたいという人が現れ、上手く商談がまとまりました。買い手に対して、翌日に牛の引き渡しと代金をもらうと約束をしました。

 

 

 

ところが、その牛が当日の夜に死んでしまったのです。当然、商談は成り立ちません。牛を売ろうとしていた人は代金をもらえなくなりました。

 

 

 

「牛を買おうとした人は、ほんま得したなぁ。お金払ってからすぐに死んでもうたら大損やったけど、それを回避できたんやから良かったで。逆に、牛を売ろうとした人は気の毒なことやなぁ。牛がほんの少しでも長う生きとったらお金手に入とったのに、引き渡しの前日、それも夜に死んでもうたなんてタイミング悪すぎるがな。予想だにしてなかったやろうに。ほんま損したなぁ。」と言う人がいました。

 

 

 

まぁ普通に考えたら、そのような考えになることでしょう。しかし、吉田兼好の発想はまったく異なります。「かたへなる者(そばにいた人)」という分身を使って話を展開していきます。

 

 

 

「確かに牛を売ろうとした人は損したかもしれんけど、そうとも言えんで。逆に大金を儲けたようなもんや。なんでか言うたら、普段やったら死に直面することもないやろうけど、今まで田畑づくりを一緒にしてきた牛が突然死んでもうた訳やろ。死というもんを目の当たりにしたら、生ある自分は日々の生き方を真剣に考えて充実した毎日送らなあかんなぁと思うやんか。欲に駆られた毎日を過ごすのんとは雲泥の差があるでな。これは大金を得たんと同じくらいに価値があるんと違うか。」と展開します。

 

 

この話は、おそらく吉田兼好の作り話でしょうし、生死の話も極端で受け入れられないかもしれません。しかし、誰しも当然と考えられることでも、発想を転換することによって物事の考え方が変わるというお話と捉えましょう。

 

 

 

「受験勉強」=「つらい」という構図ではなく、生あるこの時期に、通常だったっら避けていたであろう多方面の知識を習得できるチャンスと捉えることができるならば、合格であろうと不合格であろうと結果を気にせず、日々楽しく勉強を進めることができるというのが理想の形と思います。

 

 

 

吉田兼好も同段で「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」と記述しています。

 

 

 

結果を気にすることなく、大事と思われることをコツコツと積み上げていく過程重視の手法は、先程ご紹介した『おもしろ古典教室』の著者である上野誠先生そのものなのです。

 

 

 

上野誠先生は、現在奈良大学文学部教授(国文科)として「万葉挽歌の史的研究」・「万葉文化論」を専門とされており、まさに万葉研究の第一人者でいらっしゃいます。

 

 

 

1960年福岡県生まれで福岡大学付属大濠高校卒業後、国学院大学文学部文学科、同大学大学院文学研究科博士課程を経て、奈良大学文学部国文学科専任講師、助教授、教授となられています。「高校時代の成績もほめられたものではなく、キャリアもエリートとはほど遠い。」とご自身が著書で述べられています。

 

 

 

ただただ日々コツコツと勉強されてきたプロセスの積み重ねが、結果的には素晴らしい業績を残されています。

 

 

 

目の前のことに一喜一憂するのではなく、存命の喜びを噛みしめながら、日々楽しく充実した日々を過ごすことが大事だということを先生ご自身が実践されているのでしょう。

 

 

 

勉強は「強いて勉める」だす』とか本ブログでも述べており、甘えて逃げ出すことを戒めていますが、上野誠先生のような肩の力が抜けた柔らかい感じは、目指すべき理想の形と言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考) 『徒然草』第九十三段

「牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。

 これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。

 また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。 生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

 

 

 

 

  • 0
    • Check
    コメント一覧
    コメントする

     

    無料ブログ作成サービス JUGEM